顕彰会会報寄稿
 菅茶山顕彰会会報27号記事
 「鞆で活躍した神辺の文人菅良平」 
   
講師 園尾裕氏(福山市教育委員会学芸員)
                
①菅波家の一族
 現神辺本陣の分家本庄屋(七日市)の分家が中屋、その三代目上本庄屋(新宅)黄葉夕陽村舎菅茶山―北条譲四郎、四代目下本庄屋菅良平である。

②茶山と良平
 菅良平(明和8年(一七七一)~天保6年(一八三五)は、茶山の末弟耻庵とは三つ年下、茶山の勧めで、天明7年、17歳の時、拙齋の欽塾に入門。後に家業が傾き大阪から鞆へ移り、屋号生玉堂(現太田住宅)で保命酒の製造・販売を生業とする六代目中村吉兵衛(号 應雅)と起居を共にする。

③良平の学問
 良平は25歳ころ、京都へ遊学、医学を学んだ。名医だったらしい。
耻庵の随筆に「平野村中の嫌われ者、大極道九平が暈絶、診察を乞われた某名医が見捨てていた命を救ったことで一躍有名になった。」件で、耻庵は良平が「小事を見て、大事を忘れている。某名医が施薬をしなかったのはきっと理由がある」 と。
京都では伴嵩蹊に和歌を学んだ。同門に中島宗隠がいる。、小沢蘆庵や上田秋成とも交流している。

④鞆へ移住して医業
 良平28歳は神辺で開業、34歳の時、鞆へ移住している。文化元年、中村吉兵衛の世話で、対潮楼下の借家から、現沼名神社南の小松寺付近の中村家借家へ引っ越し、この居を「聴松庵」と名づけた。
鞆では、清酒「梅香」酢「花の浪」など製造・販売で知られる豪商大阪屋上杉平佐衛門清直(号 閑鷗 通称 三島新助)や賴山陽、中島宗隠らと交遊している。
 山陽全書(書翰)によれば、山陽は文化八年閏二月六日、廉塾出奔三日前、心中を相談している。無論、良平は翻意を促したが聞き届けられなかった。
 文化十一年九月、山陽は廉塾出奔以来初めて京から西下、途中神辺に立ち寄り、良平に招かれ、藤井暮庵と鞆へ赴く。大阪屋で田能村竹田と面会している。
 中島宗隠と良平は伴嵩蹊塾の同門。山陽のライバル、宗隠の西遊を聞き、良平が鞆に招待、地元の二大財閥・風流人の上杉平佐衛門、中村吉兵衛を夫々の門楼「對酔楼」、「賽黄鶴楼」で引き合わせ、歓迎の宴を開いている。

⑤朝鮮通信使と「鞆浦図并対潮楼石摺屏風」の作成  朝鮮通信使は江戸時代十二回のうち十一回鞆の津へ寄港している。正使、副使、従事官の宿舎に振り当てられた福禅寺・対潮楼には多くの文化遺産が残されている。

今、日韓両国で朝鮮通信使ユネスコの記録遺産登録を目指す動きが進んでいる。来春には朗報が届く可能性がある。
「鞆浦図并対潮楼石摺屏風」(六曲一双十二面)は右隻に通信使と応接する人物像に四枚の拓本、左隻に鞆の浦港と町並描画と十一枚の拓本、うち九枚が通信使が詠んだ五言律詩、二枚が茶山と良平の識語文である。画面から文化十一年、福山藩士杉野怡雲が描いたものと推測されている。

「日東第一形勝」の木額
茶山は正徳度通信使書の木版摺ができる木刻を鞆の人々に提案した。しかし、賛同を得られず、「日東第一形勝」のみ木刻した。茶山から未完の「三使書」の木刻の依頼された良平は三島新助こと大阪屋に相談、財政支援を得て完成した。